人生って何ですか 2003,7,8


何ですか。



「逃げる」ことは、基本的に根本的な解決にはなっていません。
逃げることで解決した(ようにみえる)ことは、再び同じような状況になったときに、その状況を打破するには至りません。
勿論、逃げることで解決することもあります。
しかし、それは逃げなければ解決しないこと、つまりは何処までも意見が並行しているときに限ります。
最終的に逃げることでモノの解決を得るのなら、最初からそのモノを避ければイイだけの話です。
もしそれが、自分の意思に拠るもので無いのに関わってしまった(最初から回避不可能な)モノならば、それを1度は受け入れなければなりませんが、解決するにはやはり逃げてはなりません。



今日、一人の脱落者が出ました。
地域情報科学科は33名となりました。
理由はわかりません。
受験なんてものは、その人の意思によって決めるものです。
ましてや大学、ほとんど自動的に決まってしまうような高校とは違い、本人の意思が強く関わってきます。
自主退学という形で道を進むことを止めた彼は、今もなお、そしてこれからもその道を進む者からすれば、逃げたことになります。
しかし、元々文系で北大前期受験するも不合格、後期を県大で受け合格した彼が取ったその行動が、再び北大を目指すためという理由なら、それは立派な行動でしょう。
だとすれば、浪人を嫌い妥協した自分は、逃げたことになります。
言い訳かもしれないが、今思えば県大にしたということに対して後悔はありませんし、これからはこれが自分の道だと信じて進むつもりです。


もしそうでなくとも、自主退学という一つの結果を得た彼は、ただ単に学校をサボり、人生を馬鹿にする者と比べれば、十分立派かもしれません。
その彼は、日大を2,3ヶ月で退学、その後1年間プー(若しくは1年間浪人後、日大に、2,3ヶ月で退学)、そして今年度県大に入ってきました。
しかし、彼は5月の終わりから休み出し、6,7と未だ休み続けています。
そんな彼が、6月の中頃に1度だけ戻ってきました。
その時に、彼と話をしました。
彼は、大学なんて8(6?)年くらいかけて出ればイイと言っていました。
その上、命を絶とうかな、と言い出したのです。


この世には、生きたくても生きられない人が居ます。
この世には、不慮の事故で死ぬ人が居ます。
この世には、絶望や苦悩の末、死ぬ人が居ます。


それを、彼はただ単に生きるのが面倒臭いからという理由で、命を絶つという言葉を口に
しています。
これは主観ですが、うちは、そういうやる気の無い奴が大嫌いです。
そういう奴には、生きろどころか、死ねとも言う気がしません。
例え死ぬにしても、面倒臭いので関わるな。
もう関わったお前は、面倒臭いので死ぬな。
そして、もう現れるな。



逃げることで人生が変わるなら、幾らでも逃げます。
寧ろ、そんなことで変わるような人生なら、要りません。


人が生きる理由は、その人が少しでもその人の人生を全うするためです。
その目的を安直に捨てる奴に、生きる資格はありません。
しかし、今既に生きている以上、死ぬ資格もありません。


人が人である限り、人が人であるために、人はその人生を行くのです。
そこには理由も無ければ、答えもありません。
だから、生きるのです。
だから、死ぬまで生きるのです。
だから、人が生きると書いて人生なのです。



知り合い(といっても、直接話したことの無い顔見知り程度?)の女子高生が、学生ベンチャーをやっているということを、話しているのを聞きました。
(実際の活動は、まだ同人辺りに近そうですが)デザインのことをやっていて、服に付けるタグを作っただとか、携帯HPを作って管理してるだとか話していました。
今のところはその人は服飾、他にグラフィックをやっているそうです。
そのことを話す彼女は、輝いていました。


一方では、逃げる人生、他方では、生きる(活きる)人生。
一日でこれらのことを聞いたので、この彼女の生き方はより鮮やかに感じました。



そうやって考えると、うちの人生は何て平凡なのだろうと思いました。
可も無く不可も無く、是でも非でも無く、楽でも苦でも無い。
平凡というよりは、何も無い虚みたいに感じます。


この人生、もしかしたら命を絶とうかなと言った奴よりも、価値の無いものかもしれない、と。



話は少し戻りますが、中には逃げられない状況というものも確かに存在します。


虐めは有ってはならないものだと言いますが、人間が感情を持って生きる限り、それが無くなることは決して無いでしょう。
虐めという形のあるものにならなくとも、人の感情によって作られた優越感、劣等感などに拠る相対的な差別は絶対に存在します。


虐めは虐める側が悪い、というのは、絶対と言い切れる訳でもありませんが、決して否定できるものでもありません。
しかし、虐められる側が悪いということはありません。
虐められる側にも問題があることはありますが、それが悪いことと繋がるかというと、そうでは無いと思います。


虐められる側が、虐められ続ける理由の一つに、虐められっぱなしだからいけないのだという意見があります。(ようは、強くなれ、と
またもう一つ、虐めに対する意見として、大人が悪いという意見もあります。


これらは、どちらも肯定できかねます。
まず、普通に考えて、強くなるのは無理です。
ただ唯一強くなることは、我慢強くなることです。
どんな虐めに対しても虐められることに反抗せず、虐められ続けることにだけ強くなっていきます。
これが、虐めがますます悪化することに繋がります。


次に、大人がどうこうという意見ですが、例え大人が気付いたとしても、それを子供が拒むということがあります。
つまり、子供が虐められてるにも関わらず、虐められてることを大人に隠すのです。
この理由には、勿論虐める側からの仕返しが恐い、とかがあると思います。
しかし、それだけでは無いときがあります。
それは、子供が虐められてることを大人に知られることが恐い、ということです。
虐められてるということを知られるのが、恐いのです、若しくは、恥ずかしいのです。
このことにより、虐めが水面下だけで行われてることがあります。


もし、大人が子供を監視することにするのならば、少しでも目を離してはなりません。
学校の教室だけ、廊下だけ見張ってれば良い訳じゃないのです。
トイレ、移動教室、掃除、下校、etc...
家に帰れば家族が居るかもしれません。
しかし、その家に「友達から」電話がかかってきたとしたら。
学校が終わったとき、無いときでも、子供の外出にすら見張りが要ります。
だけど、それは無理です。
子供一人に対して大人一人要るわけですから、先生じゃ勿論足りませんし、親ですら四六時中見てるわけにはいきません。


虐めを無くしたいというのなら、それは無理です。
虐めは、予め回避するしか無いのです。
1度起こってしまった虐めは、そう易々と収められるものではありません。
しかし、虐めを予め回避する手段なんて何処にあるのでしょうか。
それは、何処にもありません。
これが結論です。
もしあるとすれば、それは自分以外に誰も存在しないときだけかもしれません。